いきざまシリーズ3
終戦は済州島 「まず命が助かった」
生まれたのは大正11年の7月です。兄弟は5人ぐらいいたでしょうか(笑)、ともかく、私が長男でした。実家は大正区で米や雑貨を扱う小さな店を営んでいました。尋常小学校を出たあとはこの店を手伝っていました。
戦時中は78連隊の一員として朝鮮半島、ソウルの近くにある龍山へ派兵されました。この連隊はニューギニア要員が中心で多くの仲間が南方で命を落としましたが、私は半年後に済州島での任務につきました。済州島はアメリカが拠点にしようとしたので、空襲も激しかった。山にはいって大きな穴を掘って潜んだり、自爆する覚悟で磁気地雷を敵のタンクにとりつける訓練もしました。そんな島で終戦を迎えた時、どんな感情よりも、まず命が助かった。その事実だけを強く意識しました。
大阪に戻ってくると、実家は空襲の被害を免れていて、家族もみんな無事でした。帰ってきてしばらくはぼーっとしてたのですが、まず食うものがありません。闇米を買いにいったり、汽車で長野まで行って、農家から野菜などの食糧を買って大阪で売ったりしてましたね。大正の港に大きな船が着いたら、船会社の社員に交渉して航海で余った重油を買ったり。とにかく、いろんなことをして食いつなぎましたよ。
一生懸命に仕事をし、運もよかった
それである時、政府が道路を造るために区画整理した土地を地主から借りることになったんです。そこにバラックの家を建て、電気をいれて小さな工場を開きました。ある会社を定年退職した技術者を一人雇って、土木建築機械の修理を主にやり始めたんです。
設備なんてまったくありませんから、最初は溶接の中古機械を知人に安くしてもらって、それを月賦で買ったことを覚えています。そこでなんとかがんばっていると、いよいよ区画整理が始まるから立ち退かなあかん、ということになったのですが、私の小学校以来の友人が近所の商店街で靴屋をやっていました。彼は戦時中に手榴弾を受けて足が不自由になっていたのですが、その靴屋に区画整理事務所の職員がよく遊びにきとったんですね。それでその職員というのが競馬のノミ行為に関わって大変なことになり、友人を通じて私のところへ泣きついてきたんです。まあ、10万円ほど貸しましたかね。そんなことがあって立ち退きについて時間の猶予をもらったというか、大目にみてもらえた。これはすごく運がよかったのですが、私も一生懸命に仕事をしましたし、工場には多い時で12,3人の従業員がいました。なにせ素人から鉄工所なんてものを始めたものですから、最初は見積もりの仕方もわからない。終戦から歳月がながれるにつれ、日本はものすごい勢いで復興していきましたが、私は世相を見るほど頭がよくなかったんで、下ばかりみて生きていました。
時代は高度経済成長期
結局、大正の工場を区画整理で立ち退いた後、得意先があった枚方市へ移転したんです。
時代は高度経済成長のまっただ中でした。私の工場も人出が足りなくなって新聞広告で募集したりしました。採用したら近くにアパートの部屋も借りてあげるんですが、あの時代はいろんな人間がいましたから。ご夫婦できても、夫がギャンブル狂でいつのまにかいなくなって…。実家の九州に子供を連れて帰る奥さんに交通費をあげたりしましたね。
例えば、都市化が進んで地下鉄の工事なんかが始まると、地下を掘削する仕事を請け負いました。とにかく、忙しかった。真面目な社員ががんばってくれても、それだけじゃ足りない。本当に猫の手でも借りたい状況でした。地下鉄工事は危険を伴う仕事なんですが、24時間ぶっとおしで作業したこともありましたね。役所から天下った建設会社の役員さんなんかを相手に、接待ゴルフとかもしましたよ。大きな収入を得ることはなかったですが、一生懸命働いたおかげで従業員に給料を支払い、自分も妻とそれなりの暮らしを送ることができました。
人との出会いが運命を変える
工場を閉めたのは、68歳の時です。土地を売って、それまでの借金を返して従業員に退職金を払って私の人生は一つの節目を迎えました。鉄工所は私にとって偶然のような形で与えられたものです。小学時代の友人がやってる靴屋に区画整理事務所の職員が顔をだしていなかったら、すぐに立ち退いてまた、他の仕事をしていたかもしれません。なんの取り柄もない男ですから、自分で何かを選択することなんてできない、ぶちあたった仕事が天職だった、というのが実感でしょうか。
でも、誰に人生にもそういうことってありますよね。人との出会いが運命を変える。この歳になると、そんな感慨が日に日に膨らんでいきます。
実はその小学校時代からの友人が、先日亡くなったんです。私は自分だけが彼を親友だと勝手に思いこんでいるんじゃないか、と思っていましたが、亡くなる前に見舞いに行くと、彼の娘さんから「父は華山さんを一番の親友だと言っていました」と聞きました。それで、ご家族以外は私だけが臨終の場に立ち会わせてもらって…。お互い耳の痛いことも言い合いましたし、何より、ただ清潔に付き合ってきた親友の存在の大きさが身に染みましたね。
苦労をかけたせいでしょうか、30歳の時に結婚した妻は私を残して亡くなりました。今は親戚の家に同居しています。
今の私は死刑囚のようなもんです
私も9年前に大腸ガンを患いました。担当医からは最初「6ヶ月しかもたない」といわれましたが、奇跡的に回復しました。医師にガンを告知された時は健康な時には感じたことのなかった「生きたい」という願望でいっぱいでした。幸いにして転移しなかったわけですが、自分なりに考えると、55歳の頃から毎朝晩、健康マッサージと軽い運動を続けていたことが、体全体の免疫力を高めることになったのではないか、とも思っています。
自分でいうのも変ですが、初めて会った人からはたいてい、本当の年齢よりも10歳以上若く見られます。
日本人の平均寿命から考えると、言葉は悪いですが、今の私は死刑囚のようなもんです(笑)。今まで生きて経験し、感じたすべてのことを少しでも長く、強く、楽しんで生きる力にしていきたいですね。
(H17年05月23日取材 レポーター:城島充) |