いきざまシリーズ4
「人生は音楽とともに…」
引き揚げ
小学校4年生の時に戦争が始まって、終わったのは女学校にいる時、14歳でした。戦時中よりも戦後の混乱のほうが当時中国にいた私には辛い思い出になっています。政府軍と共産軍による内戦が激しくなり、女の子は兵士に襲われるからと、髪の毛を切って丸坊主にして過ごしました。一度は兵士が撃った弾丸が私のこめかみをかすめていったこともあります。
終戦から2年が経つと、私たち家族も帰国することになりました。弟2人、妹一人も一緒でした。まずは、当時疎開していた奉天というところから遼陽という町まで列車で行きました。コンテナにすし詰めになって向かうんですが、今日どこの町に着くかもわかならない。止まった土地で、一足先に日本へ引き揚げた人たちが残していった空き家で寝泊まりしました。私たち家族の前に泊まった人たちの煮炊きした後が残っていたことを覚えています。そんななかで何日もコンテナで移動し、ようやく港へ着きました。
そこから軍艦で福岡の博多へ向かいました。父と母が昔から日本のことをいろいろと話してくれてましたが、私にはイメージがわきませんでした。
母はよく「日本では今ごろ、桜が咲いているよ」「今頃は梅雨かな」なんて言ってましたが、中国には桜も梅雨もありませんでしたから。
中国を出て、どれぐらいの日数がかかったのかよく覚えていません。ようやく船上から博多の町が見えた時、『ああ、なんて箱庭のように美しい風景なんだろう』って思いました。
でも、ちょうどその頃にコレラが流行し、私たちが乗った船はそのまま1ヶ月以上も停泊させられたのです。
いつになったら、日本に上陸できるのか。そんな苛立ちばかりが募った頃でした。
りんごの唄を聞いて
船員さんが私たちを励ますために、日本の歌を唱ってくださったのです。並木路子さんの「りんごの唄」でした。
ああ、日本ではこんなに明るい歌が唱われているんだって驚きました。
私の母は教師をやっていて、伯父の一人は音楽の先生でした。子供の頃から母がオルガンでいろんな曲を弾いてくれたおかげで、ずっと音楽は身近なところにあったんですが、それでもあの「りんごの歌」の明るい旋律は衝撃的でした。何か明るい未来が目の前に広がっているような気持ちにもなりました。
博多に上陸すると、すぐに父親の兄がいた島根県の松江に列車で向かいました。
車窓から美しい水田の風景が見えたのにも感動しました。中国はコーリャン畑やトウモロコシ畑ばかりで、水田を見たことがなかったのです。その周囲に藁葺きの家屋があって…。ほんと、感動しました。
学校は松江市立女学校に2年生から編入しました。中国の校舎はみんなレンガ造りですから、木造の校舎にも驚きました。
初めて桜の花を見た時も心が癒されました。
でも、終戦から2年が経ってましたし、最初はなかなか周囲に溶け込むことができませんでした。、なにせ、丸坊主の変わった女の子が中国からやってきたぞって感じでしたから(笑)。
そしてこの女学校の時にピアノを本格的に始めました。小さな頃から音楽に親しんできたことと、やはり、あの船上で船員さんが歌ってくれたあの「りんごの唄」の影響が大きかったのかもしれません。
夫との出会いとリハビリ生活
学校を卒業して松江貯金局に就職すると、コーラスの活動もはじめ、顔見知りになったバンドのボーカルに誘われるようにもなって…。その頃はNHKの歌番組にも出演していました。バンドの名前は「レイクサイド」。NHKのディレクターの方がつけてくださいました。松江には宍道湖がありますから。
そしてその頃、松江のジャズバンドで活躍していた主人、森山達也と出会ったのです。
昭和30年に結婚すると、主人と一緒に大阪へ向かいました。大阪のプロダクションで主人が仕事をすることになったのです。
住吉区のアパートで2人の暮らしが始まりました。
主人の仕事は主に編曲というか、アレンジャーで、妻の私がいうとおかしいですが、ものすごく才能に恵まれた人でした。だからでしょうか、いろんな歌手のアレンジを担当して、家にもよくプロの方がレッスンに来てました。主人の弾くピアノは人を気持ちよくさせる独特の感性と味わいがあって、伴奏をする時も、とても歌いやすいようにリードしてくれるんです。クラブなんかでお客さんが勝手に歌い出すと、すっとピアノの前に座り、その人にあわせて弾いたり…。とにかく、音楽と、そして人が好きな人でした。
そんな主人が脳梗塞で倒れたのは、彼が46歳の時です。
アレンジの仕事が忙しく、一日2時間ほどしか睡眠がとれない日々が続いていました。私たちは3人の子宝に恵まれたんですが、当時は上の子が芸大生、二番目の子が高校生、一番下の子はまだ、小学校6年生でした。
左半身が動かない、重い症状が残りました。
それから治療とリハビリの日々が続きました。主人の麻痺した左足と、私の右足をヒモで括りつけて一緒に歩く練習をしました。どこかの病院で好い治療があると聞くと、飛んでいきました。
私も車の免許をとって、助手席に主人を乗せてあちらこちらへ走り回りました。
東京のある病院へ行った時のことです。高濃度酸素による治療を受けていた時、主人が『ああ、オーケストラの音が聞こえてきた』ってつぶやいたことをよく覚えています。回復してくると、右手だけでピアノの鍵盤をおさえて演奏しました。
やはり、音の感覚で生きてきた人なんだなって思いました。
主人のリハビリ生活は18年にもわたり、56歳の時に亡くなりました。その時、ご友人の一人が、「ご主人は亡くなっても、素晴らしい音を残してくれた」と言ってくださったことが嬉しかったですね。
思い出を重ねて
今年の4月、抽選に当たったので、市営住宅に引っ越しました。
家には主人が手がけたり、趣味で集めたレコードが山のようにあったのですが、子供たちと分けて少しだけ今の部屋に持ってきています。
何年か前から、リウマチで右の手首が痛むようになりました。
でも、これぐらいの痛みに絶対負けたらあかんと思ってがんばっています。
辛くなっても、音楽の力で癒されます。
私の人生はほんと、音楽とともにあるのだ、と思いますね。
あっ、でも、中国にいる時に食べていた懐かしい味をふっと思い出すこともあるんです。「チェンピン」という食べ物で、コーリャンかトウモロコシを鉄板の上で薄く焼いてその上にネギや味噌をのせて食べるんです。
人間の思い出って辛いことと楽しいことが織り重なっていて、本当に面白いですね。
これからもシニアネットの活動で楽しい思い出を増やしていきたいと思います。
(H17年07月23日取材 レポーター:城島充) |