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いきざまシリーズ5 

ラジオから聞こえるメロディに希望を

 

 

姫路城を背景にして…

 昭和2年3月の生まれですから、少年期の記憶は戦争とともにあるんですね。実家は姫路で、近くに軍事関係の会社があったのでよく空襲にあいました。どこどこに爆弾が落とされたという話を聞くのですが、怖くて見にいけませんでした。戦争の記憶に塗り込められた少年期ですが、唯一の希望は音楽でした。
 両親は百姓をしていました。子供の頃から田んぼ仕事を手伝いながら、軍歌や童謡を歌ったり、ハーモニカを吹いたりしていました。姫路城を背景にして…。自分の家にラジオがなかったもんですから、ラジオを持っている家の前を通る時、自然と耳を澄ませる癖がついてしまって。そこからかすかに聞こえてきたメロディに憧れましたね。自然と胸が弾んでくるような気持ちになりました。かといって、戦時中だから明るい未来や希望を胸に生きていたわけではありません。兄は南方へ出兵して亡くなりましたし、私もまた、お国のために自らの命を捧げる覚悟でした。当時はそういう教育を受けていたのです。

終戦の半月前に召集令状が

 そして昭和20年の8月1日、つまり終戦の半月前に召集令状が届きました。大阪で訓練を受けている時、ラジオで玉音放送を聞きました。信じらない気持ちでしたね。神風が吹くと信じていましたから。でも、日を重ねるたびに、目の前の現実を理解するようになりました。自分の命が助かったという感慨は正直、あまりなかったですね。
 そのあと、洲本に残務処理というのでしょうか、進駐軍へ兵舎を引き渡す手続きなんかのために赴任して、姫路に戻ったのは、終戦の年の11月だったでしょうか。そりゃあ、戦争に負けてすべての価値観ががらっと変わって、この先、どう生きていけばいいのか、これから一体何をすればいいのかって悩みましたね。家が百姓をしていたので飢えたという記憶はないのですが、それでも苦しい時代でした。しばらくは両親の田んぼ仕事を手伝ったりしていたのですが、ある日、父親がぽつりと言った一言が今も胸に残っています。「これからは、お前が好きなことをやればいい」と。

「これからは、お前が好きなことをやればいい」

  好きなことって何だろう。自分の胸に手を当ててみてふっと浮かんだのが、音楽だったんです。
 姉が嫁いだ神戸の家にピアノがあったんで、田んぼで収穫したお米を運んでいった時なんかに弾かせてもらいました。大きい音を出すとご近所の迷惑になるので、フエルトを緩衝材かわりに置いて練習しました。いろいろと迷惑をかけたでしょうが、黙って見守ってくれた姉には感謝しています。
 それこそ、夢中で練習しました。いつも鍵盤に向ってましたね。今は庄内にありますが、当時は鶴橋にある大阪音大に入ろうと思ったからです。晴れて音大生になれた時はうれしかったですね。朝の5時に姫路の家を出て、片道3時間かけて大学へ通いました。往復6時間の汽車のなかではほとんど居眠りをしていました。大学のレベルについていくために時間を見つけては必死に練習していたのです。

音楽は神聖なもの

 卒業後の進路は、教員になるしかなかったというのが正直なところでしょうか。在学中はジャズバンドで弾いたりもしましたが、子供のころから「先生」という職業にぼんやりとした憧れを抱いていたこともありました。
 先輩が臨時講師をしていた後を受けて、吹田にある関大一中で教えるようになったんです。そのまま正式採用されて、教師生活のすべてをこの学校で過ごすことになります。
 男子校ですから、何人かの教え子が家に遊びにくるような仲になって、そのなかの一人のお姉さんとつきあうようになって…。それが私の妻です。
 結婚した後は兵庫県曽根に古い一軒家を借りて暮らしました。
 音楽は神聖なものだという気持ちが強かったですから、生徒たちにも必要以上にきつくあたったかもしれません。もっと楽しい授業をせなあかん、と思っではいたのですが、どうしても自分の体験と重ねて軍隊式の指導になってしまうんですね(笑)。
 ある時、学校のピアノをわが物顔で弾いている生徒がいたもんですから、いかにピアノが最高価の音楽器具でいかに神聖なものかを教え、無断で弾いたことをかなりきつく叱ったんです。そしたらその子が激しく反発しましてね。文化祭で弾き語りを披露するために練習していたそうなんですが、私はその子の自尊心を傷つけてしまったんですね。
 そりゃ、楽しかった思い出もありますが、教師生活を振り返る時、なぜかそんなことを思い出すんですよね。小さな頃に憧れた教師の世界とは違いましたが、毎日毎日、一生懸命生徒たちと向き合った自負はあります。
 部活は吹奏楽部の顧問をしていたのですが、大阪には淀川工業という全国でもトップレベルの高校があるんです。同じ楽器なのに、もう最初の音から違うんです。まあ、私も一生懸命やったもんですから、淀工の関係者の方が私が編曲した楽譜をもらいにこられたこともありました。

今は妻と2人で

 家庭生活では2人の娘に恵まれました。上の娘は京都音大を卒業して、今は長野で夫とともにペンションを経営しています。下の娘ももう、嫁ぎました。
 今は茶屋町の近くのマンションで妻と2人で暮らしているのですが、毎朝、近所を散歩するのが日課です。それから週に一度、地域のビジネスマンの会合に顔をだしていつも一曲だけ歌を披露してるんです。これも一つの楽しみですね。次はどんな歌を唄おうかって考えるだけで楽しくなります。
 ピアノは長女が音大に入学した時に下宿に持っていったので、それ以来、我が家にはありません。ピアノの鍵盤にふれる機会はほんと、少なくなりましたね。
  60歳で退職してからもしばらくは学校に足を運んで教えたりしていたのですが、もうここ15年ぐらいはすっかり学校とも離れましたね。教え子ともやはり世代のギャップもありますから。若い人にとって音楽はたくさんある娯楽や遊び道具の一つかもしれません。時代とともに音楽の役割が変遷していくのも必然でしょうが、テレビをつけていて最近の音楽を耳にしたりすると、複雑な気持ちにはなりますね。

(H17年09月5日取材 レポーター:城島充)

Talking 

岩倉 猛利

(いわくら たけとし)


-PROFILE-


昭和2年兵庫県姫路市に生まれる。大阪市北区に在住。

おおさかシニアネットと私

 シニアネットの活動は、ボケ防止です(笑)。ピアノをやっていたので指先の器用さには自信があるのですが、なかなか講習で教えてもらったことを自宅でしっかり復習できないものですから、パソコンは上達するのが難しい。

 78歳になりましたが、もし人数が集まるなら、コーラスのグループを作って活動したいな、とも思っています。

 

 


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