いきざまシリーズ6
私は書道しかない人間ですから
書道のきっかけ…
書道を始めたきっかけは、父親が茶道具などを作る職人をしてまして、箱書きに必要な筆の力をつけさせるために、私と兄に習わせたのがきっかけです。本当は自分で箱書きするのが一番よかったのでしょうが、年をとってから習い事をするのが面倒だったんでしょう。確か、六歳か七歳の頃でした。最初は「なんでこんなん習わなあかんのや」と思ってましたが、やっていくうちにどんどん面白くなっていくんですね。書道の何が…と聞かれても困りますが、子供心にその魅力にはまっていったんですね。
私は昭和三年の生まれですから、太平洋戦争が勃発したのが十三歳の時です。でも、戦争が始まっても、私は筆を手放しませんでした。そして書道への傾倒を決定づける出来事が昭和十八年、十五歳の時に起こりました。
東久邇宮杯という大きなコンクールで最高賞第一席をいただいたのです。 新聞にも顔写真入りで紹介されて、表彰式は東京へ。その喜びを味わってから、もう狂ったように書道にのめりこみました。気が付けば朝方まで筆を握っているという日も少なくなかったですね。
戦時中のこと…
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15歳の頃、工芸学校時代2年生(今の工芸高等学校/阿倍野区文の里) |
戦時中に通っていたのは市立工芸学校の木材工芸科です。今で言うと、設計やデザインを学ぶようなところです。音楽も好きなものですから、音楽部にはいってトランペットを吹いていたのですが、教師に目の前でそのトランペットをたたき壊され、「(日本の)ラッパを吹け、そうしたら許してやる」と言われました。 あの時は悔しかったですね。でも、あの時代はそういう時代でした。教師に殴られ、頬が腫れ上がっても、文句の一つも言えません。マッチのことも「擦り火」と言ったわけですから。 |
もちろん、食べるものもありません。煎った大豆をズボンのポケットにいれて、それを昼休みに口にしていました。書道部もありましたが、最後まで筆を握り続けていたのは私だけだったと思います。戦時中はいい墨はありませんし、いつもドロドロのやつを使ってました。
空襲の怖ろしさもよく覚えています。
庭に大きな防空壕を掘ってそこに避難しましたが、そんなもので恐怖をしのげるものではありません。B29機が落とす焼夷弾は、柱に巻き付いて家屋を焼いていきます。濡れたぞうきんを竹の棒の先っぽにつけてこするのですが、おいつきません。
戦争が末期になると、同級生たちはみんな予科練に入って、その後に戦地へ赴いたわけですが、細くて小さかった私は身体検査で落とされました。同級生の多くは命を落としました。ろくな訓練もうけずに特攻するわけですから…。もし、身体検査に合格していたら、今の私はないと思います。
戦後食糧難のときも
戦争が終わると、ますます食糧難はひどくなりました。タンスに残っていたわずかな衣類をリュックに入れて、和歌山の田舎のほうへ行きました。ミカンでもなんでも、食べ物と交換してもらいました。
それから、空襲で電信柱が焼けたでしょう。それを夜中にひきずりながら、家に運び込んでくるんです。それを父親と一緒に細かく加工して下駄を作りました。ちゃんと鼻緒もつけてね。近くに飛田の遊郭がありましたから、その下駄はよく売れましたよ。父親は知恵を絞って、手先の器用さを食べる糧にしたんでしょう。
生きるのに精一杯なあの時代も、やはり私は筆を手放すことができませんでした。
私は母親にいつも「僕のぶんは残しておいて」と、一合のお米を我慢していました。そしてその一合のお米をもって習字道具を扱っている文房具屋へ走るんです。一合の米と、半紙を交換してもらうためです。米一合では、ほんのわずかな量の半紙しか、交換してもらえません。一日の練習にも足りませんでしたが、それでも空腹を我慢しながら書き続けました。
なんというのでしょう、もう周囲からは気がおかしいと思われていたかもしれません。自分でもそう思いますからね。そりゃ(笑)。
戦争が終わってしばらくすると、造船会社に就職しました。設計も学んでいたんで学校から派遣されたような形でした。不安定な時代なんで半年ほどすると、会社はつぶれました。そしてその次ぎに派遣された会社も長く続かずに潰れてしまいます。今から考えると大変な時代やったのですが、それぞれの職場で書道の力が生かされましてね。感謝状や転勤書、辞令書などをしっかりとした字で書ける人が少なかった。だから、私の筆は重宝がられたわけです。
小さい頃から熱中した書道が、私に力をくれたんですね。他の社員がどろんこになって働いている時も、私は筆を握っていたんですから。
そんな感じでいろんな会社で働きましたが、私はずっと筆で飯を食べていたようなものです。少しでも手元にお金が残ると、硯(すずり)や筆を買ったり、書道の参考になりそうな本を買いあさりました。硯って結構、高価なものなんですよ。硯もダイアモンドも同じ石でしょう。私なんかいい硯を見ていると、うっとりしてしまいます。
結婚・独立そして「泉心会」
独立という意味でいくと、昭和40年前後になるでしょうか。
この間、27歳の時に結婚しました。本格的に書道で食べていくとは考えてなかったのですが、よく考えたらそれまでも書道が人生を支えてくれたわけですから、必然的な流れだったのかもしれません。
書道教室を開いたといっても、最初は看板もあげていませんでした。顔見知りの人がやってくる。その人の紹介でまた、新しい人が…という感じでした。
私の書号は「皐峰」というのですが、師匠の井上清高先生がつけてくださいました。最高のレベルまでのぼりきって、さらに上へ行けという意味でしょうか。でもね、難しいのですが、欲というものをだしたら、字はあかんのです。丸裸の人間がでますからね。
私たちの会は「泉心会」といいます。「心は泉のように清らかに」という願いを込めています。
教えるといっても、言葉で説明できないことも多い。技術的な指導だけではいい字が書けるようにはなりません。これまでに教えた人は、それこそ何千人という数になるでしょうか。そのうち、書道の道にはいって、お弟子さんをとってるのは8人ぐらいですね。
私という人間は書道以外、なにもありません。かといって、昔のようにコンクールに出展しようとは思っていません、いろんなものが背後で動く世界が嫌になりましたから、コンクールなんかにはもう20年近く出展していません。私は自分の書に誇りを持っていますから
書は美しいものです。自分に天賦の才があるとは思いませんが、書道が好きだという熱意と、他のなにものにも左右されない集中力はあったと思います。このことは他の芸術やスポーツにも共通して必要な要素かもしれません。
幸いにして、娘も同じ道へ進んでくれています。3歳の頃に初めて筆を持たせたら、半紙の上に字を書かずに、机を真っ黒に塗りつぶした子なんですが、今では立派に後を継いでくれています。書号は「春園」。これは私がつけました。
その娘、17歳の孫が高校の吹奏楽部でトランペットをやっているのも、不思議な縁を感じますね。もちろん、吹きたくても吹けなかった私らの時代のことは知らないでしょうが。「書道よりトランペットのほうが楽しい」と今は言ってるのですが、将来、書の道へ進んでくれれば、これほど幸せなことはありません。
このシニアネットを通じて、より多くの人が書道の魅力にふれてほしい。そのことも私の大きな願いです。
(H18年1月18日取材 レポーター:城島充) |