いきざまシリーズ1
「病気」が私の転機
「漫才の神様がおって、ようやく春が来た」と心の底から思うことが起こりました。
昨年10月16日大阪「ワッハ上方」で行った「はな寛太、いま寛大漫才結成35周年記念公演」が、文化庁の04年度芸術祭演芸大賞に選ばれたのです。
今年1月19日大阪のホテル・ニューオータニで、私達コンビは身に余る栄誉と歓喜の大賞を文化庁から直に頂戴致しました。長年上方漫才に携わってきた者として、演者冥利に尽きる天にも昇る心地でした。
今まで「こびず、おごらず、手をぬかず」をモットーに只ひたすら漫才に打ち込んで来たことが、この予想だにせぬ大賞受賞に結びついたのではないかと思っております。
これに至る私の人生を振り返りますと、幸か不幸かたまたま遭遇した幾つかの「病気」が、私の転機というか節目になったことだけははっきりとしているのです。
私は高校を卒業してすぐに神戸製鋼のノンプロ野球チームに入団しました。高校時代の公式野球選手としての実績が認められたからで、将来のポジションまでも約束されるほど順風満帆でした。
ところがそれも束の間、私は「腎臓結石」を患って入院することになったのですが、これを知った同チームから、即時退部を申し渡される羽目になってしまったのです。
この「病気」で"夢"を失った私は、元気を取り戻すと早速職探しに走りました。
その時偶然目に止まったのが、「松竹新喜劇文芸部」の台本募集の記事広告でした。小学校4年生のとき作詩で文部大臣賞を取ったこともある私は、以来文章を書くことにはいささか自信がありましたので、気を入れて書き綴った台本3篇を応募してみたところ、それがなんと1篇が入賞、2篇が佳作をとり、産経ホールで表彰されたのです。
この直後、かの有名な松竹新喜劇の渋谷天外師匠から、「いっぺん冒険してみませんか」という思いがけない手紙を頂きました。
これをきっかけで昭和38年4月、「松竹新喜劇文芸部」に入社したのです。 これが演芸界に入るきっかけとなりました。文芸部の仕事といえば、渋谷天外師匠の台本の清書をやらされたり、新喜劇の台本を書く毎日だったのです。
ここだけの話ですが、師匠自作の台本といっても、それは台本という体裁をなすものでなかったため、私が勝手に書き換えていたのを見咎められ、その都度めちゃくちゃに怒られたことを昨日のことのように思い出されます。
渋谷天外師匠の「病気」
その渋谷天外師匠が、「南座」で突然脳溢血で倒れられ、これが私の人生を変える大きなキッカケになりました。
一時期、松竹新喜劇の藤山寛美師匠の勧めで役者稼業をやったこともあったのですが、所詮端役、生き甲斐も将来への意欲も失くしてしまい、絶望の淵に立たされていました。
しかもそんな時、飯の種であった職場の「松竹新喜劇文芸部」が解散し、台本も書けなくなった私は、本気で転職を余儀なくされたのです。
そこで、松竹家庭劇団にいた今川正こと、今の「いま寛大」とコンビを組んで「漫才」で打って出ないかと持ちかけたところ意気投合し、昭和45年10月にコンビ結成、翌年1月東京浅草でデビューしたのでした。
苦しい時期を過ごしたその2年後、夢路いとし、喜味こいし師匠に声をかけられ大阪に戻り、2師匠に台本書きや話術の基本をいやというほど教えられ、その精進の甲斐あって、49年3月漫才大賞、新人賞を受賞。同年10月にはNHK漫才コンクール「最優秀話術賞」を受賞するほどの、晴れやかな芸道を歩んでいました。
ところが好事魔多し、テレビ時代のギャグ連発タレント偏重の煽りをもろに受け、「ほんまの話術」漫才が片隅に追いやられる風潮の中で、鳴かず飛ばずの日々を送ることになったのです。
それが時間が経つにつれて、「話術の運び」「ネタ」「テクニック」の大切さを尊重する風潮が回帰しだし、及ばずながら私達にも再び陽が差す時がやってきたのでした。平成15年10月「上方お笑い大賞特別賞」を受賞出来たのも、そのお陰だと思っております。
極めつけはおかんの「病気」
そんな折も折り降って湧いたかのように起きたのが、私のおかんの病気でした。去年の7月15日、この日はおかんの誕生日と重なったのですが、「胃癌」で入院、胃の4分の3を切除するという大手術を受けたのです。
その時おかんが、手術台の上でこれから執刀する先生に向かって「先生、ハッピーバースディの歌を歌って。私、今日誕生日ですねん」と懇願したそうです。その時執刀する先生は開腹するメスも取り上げられず、しばし落涙し続けられたそうです。
あとで私もその話を聞き、おかんがこれからも生き続けたいと思うその想いの、形を変えた極めつけの表現に感動し、号泣したのでした。
私はこの日から生き方を変えました。生と死の狭間にいるおかんが命を大切にしたいと先生に懇願した様子を思い出し、「よし、俺も残された命のある限り、皆さんに喜んで貰う漫才に命を捧げよう」、と決心したのです。
その気合をもって臨んだのが、あの文化庁の大賞受賞の対象となった「ワッハ上方」での公演だったのです。
私も還暦を過ぎてますます元気ですが、こののように私の人生は「病気」が節目をもたらし、生きる力を与え、漫才への情熱を掻き立ててくれているのです。
(取材 レポーター:毛馬一三) |